昭和四十三年一月十二朝の御理解
御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるとゆう事がない。」
御神徳を受けなければなりません。為に私共は、ままよとゆう心を出さなければなりません。ままよとは死んでもままよの事です。十二分の徳を受けようと思えば、この心が大事です。
大変厳しい感じですねえ、死んでもままよとゆうのは。実は、死ぬるとか生きるとか、そんなに難しい事ではない。誰でも受けられるとゆうのが素晴らしい。誰でも受けられるけれども、そんなら下さいと言うただけではいかん。お互いが、そんなら、私も頂かして頂こうとゆう願いを立てなければいけん。そして、どのようにならして頂いたら神徳が受けられるかとゆう事を勉強しなければなりません。精進しなければいけません。その勉強でも、精進でも、頭がようなければとか、健康でなければとか言う事がない。誰でも受けられる。そうゆう信心があると思うんです。私は何時も思います。同時に、どなたにも聞いてもらいますけれども、無言の行とゆうお話を致します。
或る寺の坊さん達が、無言の行に入ったんです。大僧、中僧、小僧、それぞれに無言の行に入った。ところが夕方ともなってきましたらお堂が暗くなってきた。一番下の小僧が「おいおい明かりをつけないと暗くなったぞう。」とゆうて、どなった。そしたら中僧が「おい、お前、無言の行中じゃないか。」それで一番上の和尚さんが、それこそ私だけが出来たとゆう顔をして言われた。「とうとう最後まで言わなかったのは私だけだった。」そうゆうようなものを私共は日常生活の中に、それこそ、もういやとゆう程感じます。子供の事、家内の事、家内と私の事、子供達もそれぞれ信心がある。家内も頂いておる。私も信心を頂いて、そんならまちっと位どうかありそうなもの。
子供が言う事を聞かない。そうゆう事で信心さして頂いておる者がどうするのかと、例えば家内が子供に言うておる。その言うておる様が、どうも私の気にいらん。お前ばかりが何時もそげなこつ言うて、子供が言う事聞くはずなかじゃなかと家内ば怒る。まるきり私だけが出来ておるように思うておる。そうゆう時にです、子供があぁあると良いのに、家内もこう分かってくれると有難いのにと思う心は未練だ。だから、そうゆう時、無言の行をせなければならんと思う。なぜって私に出来る事は何にもないんですから。私が言うてどれだけの事が出来るか。私で何ばし出来るごと、したり、言うたりしておる事がです、こんなに馬鹿らしい事はないと気付かして頂く時です、無言の行に入るより他にない。そして神様にお縋りするより他にないのです。神様にお願いするより他に手がない。子供の様を見て家内がいらいらする姿を私が見てから、せっかく信心するのにお前はそんなにいらいらするなら、なになるかと家内に言う。私だけがいかにも出来ておるようで何一つ出来ておらない。
無言の行に入った三人の坊さん達と同じ事。それを神様の眼からご覧なったら、それこそおかしい限りであろう。自分で出来るのにと思いよんなさるに違いない。それをこちらが、まず悟る事なんです。自分で何ばし出来るように思うたり、しておるのは我情である。それはどこ迄も未練なのである。その未練を捨て切って神様に御縋りするより他にない。ただ言わんぞとゆう無言の行だけではいかん。お道の信心は無言の行がそのまま祈りになり、御縋りするより他にない。で、そこにお縋りさせて頂く事は、こう思いよる事は未練だ。私が言うて出来た事が、ひとことでもありばしするか、私が言うた事を聞いた事がありばしするか、それは聞いているようにあってもうわべだけなんだ。その証拠に、あれもこれも同じ事を繰り返しておるではないか。私が言うて何ば出来るか、とゆうここの悟りが大事なんです。そこで無言の行に入るのでなからにゃあ、無言の行の値打ちはない。そして祈るのである、縋るのである。
もっと、これよりも高い魂の清まりとでも申しましょうか、そうゆう境地は、そこから無限に高度な所は続くでしょうが、まず私共は、このへんのところを頂かせて頂くと、確かに御神徳を受けられると思うです。しかも、これだけはその気になりゃ誰でも受けられるとゆう事が分かります。子供が言う事を聞かんとゆうて、仏頂面をするこたいらん。家内にちっとは分かって欲しいと言うこちゃいらん。お前ばっかしは、どうして分からんか、分からんかと言うて、こっちが分からん。少しは小僧、中僧、大僧ぐらいの違いはあるかもしれんが結局は同じ事。
私は、昨日ある書物を読まして頂きよりましたら、黒住教の教祖の事が書いてありました。魂の清まった人の言葉は、やはり有難いと思う。黒住教の教祖が、ある時お弟子さんの家へ行った。そのお弟子さんの家に額が掛かっておった。「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するのが真の堪忍」とゆう額が掛かっておった。そこで黒住教の教祖が言われた。「堪忍をせぬようにしたらよかろう」堪忍をするとゆうけれども、堪忍をせぬようにしたらよかろうと言われた。どうゆ事かとゆうと、堪忍するとゆう事は、腹を立てるとゆう事。腹を立てるから堪忍するとゆう事になる。だから堪忍せぬようにとゆう事は腹を立てなかったら堪忍はいらんとゆう事。素晴らしい境地があるもんですねえ。なあも、さわってない。堪忍する事がない。今日私が言っておりますのは、見る事でも聞く事でも、それがひとつもさわってない。魂が清まってまいりますと、そうゆう境地が開けてくる。私も時々感じる事があります。魂が清まっている時には全然問題じゃあない。子供が言う事聞きよるまいが、家内が愚痴を言おうが、全然さわってない。所謂忍ばして頂く必要がない。
そうゆう高い境地を求めて、その過程としてです、只今私が申しましたような、これなら誰でもお徳が受けられるとゆう。聞くに絶えない、見るに忍びない、本当にそうゆう事でどうするかと言う事もありますけれども、それを言っておる自分自身が果たしてどれだけ出来ておるか、そしてそれを言うておる事を本当に聞いてくれるのか。これより他には受けられない、そこで無言の行に入る。言っておる事、思っておる事は皆未練である。あぁあってもらいたい、こうあって欲しいとゆう、そうゆう思いを断たしてもらい、そこに分からしてもらう事、私に何が出来るかとゆう事。そこから言う事もいらなければ、悪い顔する事もいらん。私に何ばし出来るかとゆう事、そこに御縋りがあるのみとゆう事になる。そして、そこに体験するもの。成程言わんでもよかった。心配せんでもよかった。神様が子供を育てて下さる。家内を教導して下さる。それは場合によっては痛い思いをさせてからでも、場合によっては苦しい所を通らしてでも分からして下さるところの、まあ一歩一歩であっても、体験を感じる事が出来る。やはり神様じゃなあとゆう、信じる心が生まれてくる。成程お徳が受けてゆかれる訳なんです。誰しもが受けられる、そのお徳とゆうのは満てるとゆう事がない、限りがない。黒住教の教祖の「堪忍をせぬがよかろう」とゆう、そうゆう高い境地を開かしてもらおうとゆう願いのもとに、日々の修業がなされてゆかねばならない。どうぞ。